日本語は雅の心



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[10] 音読、朗読、読み聞かせにおけるいくつかのポイント

投稿者: natch2 投稿日:2018年 2月20日(火)22時55分17秒 p3b93be7a.tokynt01.ap.so-net.ne.jp  通報   返信・引用

                ST1093ナレーション研究室  徳弘夏生

まず、はじめに、人間の言葉とは、意思伝達の一方法であり、あくまでもひとつの道具だと割り切ることから、表現を捉えてゆきます。

人間は不器用です。人間はうそつきです。
このうそとは、人を騙すという意味のうそではなく、
てれだったり、恥ずかしがりからだったり、あるいは、相手を揶揄するために真逆の言葉を発したりしてつくうそです。

言葉は万能ではありません。何が万能かといえば、それは人の想像力、つまり、イマジネーション力なのです。
想像力とは、字のごとく、“像(かたち)を想う力”のこと。
そう、想像力こそ人間の特権なのだとも言われています。

人の表現とは一元ではありません。
人は、往々にして、二元、三元表現をしています。
言葉は、そのうちの一元を、担当しているにすぎないのだと考えてみてください。
その言葉に乗せる想い・イメージが、他の一元々々になるのです。そのとき身体は動き、表情さえ変わるでしょう。

書かれた文字に、その文字の意味をストレートに乗せる場合もあれば、その文字とは裏腹な、真逆の想いを乗せることもあります。

タレントさんのオーディションのときに、薬の効能書きを用意させるというのがあります。
ただの薬の効能書きを読ませて、恋愛小説にしろとか、
サスペンスに仕立て上げろとか。はたまた官能小説にと。
そのとき、そこに書かれてある文字の意味はすべて消失し、頭に描いたストーリーを、そこに書かれてある文字にただ乗せてゆくことになります。
実際、それがエンタテインメントにさえなってしまいます。
その時点では、人の想像力が文字を超えているのです。
その想像力こそが、タレント・表現者に欠くことのできない能力なのです。

では、私たちがそこに書かれてある文章を読んで伝えて行くとは、どういうことをさすのでしょうか。
文字を読むことイコール語りではない。
文字には何も書かれていません。多くのヒントが置かれているだけです。(ちょっと極論かもしれませんが・・・)

もっと広げて考えてゆけば、文字にこだわるのではなく、
その文章を書いた人間にこだわりたい。
書いた人間が何を想い、そこにどんなシーンを託しているのか。そう、わたしたちは、メッセンジャーなのです。
ある言葉の裏に、書いた人の姿が浮かび、そのとき彼が描いたシーンを感じられたならば、もうあなたはその文章を表現できたといっても過言ではありません。

人間のイマジネーション力と最初に述べましたが、それは何も特殊な能力ではなく、その差こそあれ誰もが持っている能力。だとすれば、語る人間がただ文字をなぞっているような読み聞かせは、空虚なだけではなく、聴くものの興味をそそることすら出来ず、居眠りさせてしまう結果になります。
朗読発表会などで居眠りしてしまうのは、寝不足などが原因なのではなく、下手な喋りを一生懸命理解しようと集中しすぎて、結局、疲れて寝てしまうことに気がつきました。
絵の見えてこない、シーンの見えない語りほどつまらないものはないのです。

しゃべり手の生理が動けば、同じように聞き手の生理が動くのです。
しゃべり手が欲望を持てば、その欲望は、聞き手に乗り移ってゆきます。
今、自分が何をしたいのか、したいという思いがないのなら何もしないほうがいい。
自分という人間を見て欲しい。自分の表現力を試したい。
だれだれに聴いて欲しい。この子達の笑い顔が見たい。
感動させて涙を誘いたい。
この“・・・たい” “欲しい” という積極的な想いこそが欲望なのです。

もう一度原点に返れば、表現するとき、誰かがそれを書き、それを伝える人がいて、それを受け取る人がいる。
そこには必ず人が存在する。
とすれば、“誰”のものを“誰”が“誰”にというように、今度は、その人称代名詞のあとには固有名詞がイメージされるはず。
誰が書いたのか。自分が書く場合もあるでしょう。
誰が読んで伝えるのか。自分だとすれば、自分は何者なのか。
では、ここから具体的なポイントの話をしてゆきましょう。

① まず誰に聴かすのか。具体的にターゲットを絞る。
年齢層もふくめて。これはスタンスの設定に重要。
これは立ち位置のことで、②でいう実際の距離の事ではない。
② 対象は何人なのか。それによって距離感が決まる。
③ その作品のジャンルは何なのかをしっかり認識する。
④ では聴き手をどうしたいのか。笑わせたいのか、おどかしたいのか、泣かせたいのか、を自分に言い聞かす。
⑤ 自分としては、その作品のどこが一番気に入ったのか。
嫌いな作品など読まない方がいい。自分の欲望に忠実でありたい。
⑥ その作品の概要を、自分の言葉で簡潔に語れること。
それが出来ないのなら説得力を持った喋りを期待することはできない。

と、ここまでが読み聞かせに当たっての初期設定である。
では、表現術のお話に移りましょう。

① 文字、単語を説明しない。その想いこそが大切。
読むのではなく感じること。
② 名詞、形容詞の説明をしない。
名詞、形容詞はイメージだ。“だからなんなんだ”を伝えたい。
例えばこういうこと。
『私は涙がこぼれた』というフレーズがあったとしよう。
これだけでは表現しようが無いのだ。
その前後のシチュエーションが設定されなければ、
ひとことだって語れないことに気づく。
つまり、涙にはいくつものイメージが存在する。
悲しいからなのか、嬉しいからなのか、寂しさからなのか、感動からなのか、不安からなのか・・・
あっという間にこれだけのシチュエーションが出てくる。とすれば、『私は・・・』のしゃべりだしの“わ”の音色は全部違ってくるのだ。その理由は次の③に託す。
③ ワンセンテンス、ワンイメージが基本。ワンセンテンスにいくつものイメージはいらない。ワンセンテンスとは、句点から句点のフレーズをさす。人はセンテンスの結論を決めてから話し出すもの。
そのセンテンスのしゃべりだしで、思いが伝わるイメージこそが大切。その色を感じて、聞く人は安心して聴くという行為に没頭してゆくのであって、毎回同じ色の音を聞きながら、何が言いたいのだろうと必死に探ってゆく中で疲れてしまうのだ。
これが生理設定。さらに、句点と句点の間を意味なくあわてるなということ。
生理設定があってしゃべりだすのだから、表情の変わる“ 間 ”があって当然。ライブの朗読などでは、観客は演者の表情、一挙手一投足を凝視しているのだ。
生理が変われば、表情も変わり、音色も変わる。
音の高さ、大きさという捉え方ではなく、音色である。
表情が、まなざしが変わるだけで子供たちは乗り出す。
センテンスごとの音色が変わることで、聴き手の興味をそそり、飽きさせずに惹きつけることが出来る。
そこにこそエンタテインメントが存在する。
④ 言葉に隠された、あるいは託された想いを表現する。
言葉そのものの意味ではなく、その言葉を使って本当は何が言いたいのかを探る。
こんな短編の一節があった。あくまでも、ひとつの例として・・・・これは実際、読みのオーディションで、出所一切説明なく、細かい設定などはすべて読み手に任された、ほんの一節だった。
この3行だけではなく、やや前後の展開はあった。
ここでは割愛。

『またどこかであおうね』と、わたしは言った。
『またどこかで・・・』と、ひとりが言った。
『またどこかでね』と、もうひとりが言った。

さあ、文章読解の世界に入って行きますよ。
『またどこかであおうね』は、とうてい、そのまま受け取れはしない。これはうそだ。
心の台詞は、『もうあうことはないでしょうね』
こうにちがいない。真逆の表現である。
こんどと、どこかと、お化けは出たことないのだ。

語尾の“で”と“ね”でおとことおんなを書き分けている。
じゃー、おとこの『またどこかで・・・』はなんなんだ。
『そっ、そうだな・・・』という、とまどいとごまかしの台詞か。わたしが思いもしない言葉を発したので、二人がその音をなぞったのだ。
では、もうひとりの『またどこかでね』は、どんな意味を含んでいるのだろうか。
『ゴメン、ネ・・・』という懺悔と謝罪の気持ち。

次には、“ひとり”と、“もうひとり”などという表現を何故しているのかという疑問がわく。
ふつうこんな表現は、しはしない。
あきらかに、“ひとり”は自分の“彼”であり、
“もうひとり”は親友の“OO子”なのだ。
親友の“OO子”に、自分の彼をとられてしまった私。
彼らは律儀にも、私に報告に来た。
取り乱したくはない私。
でも私はぎりぎりのところにいた。
そこで、“彼” とか “OO子”と口に出してしまったら、そこで崩れてしまう自分が見えていた・・・・・。

と、台詞のあとに書いた解説は、私の想像による創作なのだが、自分はそれしかないと疑わない。
だから、『またどこかであおうね』は、『もうあうことはないでしょうね』と心で叫び、
『またどこかで・・・』 はずるい男の戸惑いからのごまかし。
『またどこかでね』は、『ゴメン、ネ・・・』と心の中で口ずさむ。親友としてのせめてもの気遣いか。
このリフレインは全て想いが違うのだ。
その裏の声が語りで聞こえてきたら、
ゾクゾクするほど奥の深い表現になるはず。
さらに“ひとり”と、言うときに、心の中で“彼”といいながら読み“もうひとり”を“OO子”と心の中で口ごもる。
すると聴いている人には、
『えっ、だれのこと?あっ、そうか・・・』
という説得性を与えることになる。
ちょっと唐突だが、二元表現といわれるもののひとつの例として・・・・・

表面の文字、言葉を疑って、その隠された言葉を想いに乗せることで、先に言った、二元表現が生まれます。
その作業こそが、文章読解力なのです。

文章読解力とは文字、文法解析力にとどまることなく、
万物の霊長、人間の特権であるところの想像力をフルに駆使
して、そのバックグラウンドすべてを理解しようとする行為
に他なない。



2018年02月09日改訂

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